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人間の定義|人間とは何か

「人間とは何だろう。」

その疑問は遥か昔から繰り返し問われてきましたが、その答えは今でもはっきりしていません。

この記事では先人達による「人間の定義」を紹介します。答えではありませんが、人間の本質に迫る手掛かりになると思います。

人間とは「知恵のある存在」(ホモ・サピエンス)(1735)

ホモ・サピエンス(Homo sapiens)は、スウェーデン生物学者リンネが考案した生物学上の学名で、「知恵のある人」という意味があります。

動物の中で唯一直立二足歩行をし、音声や文字などで情報を伝達する特徴を持ちます。

高度に発達した知能を活かして道具や言語を使用します。

 

人間とは「つくりだす存在」(ホモ・ファーベル)(1907)

ホモ・ファーベル(Homo faber)はフランスの哲学者ベルクソンが示した人間の定義で、「工作する人」を意味します。

複雑な道具を作り、高度に使用するという特徴を人間の本質として捉えました。

それはモノに限った話ではなく、言語を発明したり、人間関係を構築したり、さらには独自の文化を創り出すことも意味します。

 

人間とは「遊ぶ存在」(ホモ・ルーデンス)(1938)

ホモ・ルーデンス(Homo ludens)はオランダの歴史家ホイジンガが示した人間の定義で、「遊ぶ人」を意味します。彼が著した本のタイトルでもあります。

あらゆる文化・生活や行為が「遊び」から始まるという、人間活動の根源に焦点を当てた考え方です。

何かに強要されることなく始まる「遊び」は、人間が自由な存在であることも暗に示しています。

 

人間とは「象徴を用いる動物」(アニマル・シンボリクム)(1944)

アニマル・シンボリクム(animal symbolicum)はドイツの哲学者カッシーラーが示した人間の定義で「象徴を用いる動物」という意味を持ちます。

人間の「認識」に注目し、シンボル(特に言語)を通じて人間は物事を知覚しているという考えに基づきます。

たとえば、「表面が赤く中身が白い球体の果物」に「リンゴ」という「シンボル」を与えることで私たちは「リンゴ」を認識している、といったイメージです。

しかし「人間がどのように認識しているか」には議論の余地があります。

 

人間とは「経済活動する存在」(ホモ・エコノミクス)(1776)

ホモ・エコノミクス(Homo economicus)はイギリスの経済学者アダム・スミスが示した人間の定義です。

直訳すれば単に「経済人」ですが、意味的には「自己の経済的な利益のためだけに合理的な行動をする人」、いわゆる「自分さえよければ良い」という功利主義的な見方です。

「自分さえ良ければいい」は一般的に批判されますが、彼によればそれも人間の本質的な部分なのかもしれません。

古来の日本人にはあまりない人間像でしたが、資本主義の成長とともに「経済人」な日本人も増えてきた印象です。(筆者の意見)

 

人間とは「宗教を持つ存在」(ホモ・レリギオースス)(1983)

ホモ・レリギオースス(Homo religiosus)はルーマニア宗教学者エリアーデが示した人間の定義で「宗教人」と訳されます。

神や魂などの自然を超えた存在を信じ、宗教行為を営むところに人間の本質を見出しました。

見えない何かを想定して(あるいは実際に見たと感じて)恐れ、信じ、宗教行為を実践することで心理的な安らぎを得ています。

 

人間は「本体&現象」(ホモ・ヌーメノン&ホモ・フェノメノン)(1797)

ドイツの哲学者カントは、人間には「ホモ・フェノメノン(Homo phänomenon)」と「ホモ・ヌーメノン(Homo noumenon)」という二つの側面があると考えました。

「ホモ・フェノメノン」は「現象」、すなわち実際に私たちが見ている人間の姿そのものを表します。カントによれば、こちらには欲望が備わっています。

一方「ホモ・ヌーメノン」は、私たちが認識する前から先立って存在する人間としての「本体」を表します。カントによれば、こちらには道徳的な倫理観が備わっています。

欲望に振り回される動物とも、法則に従い続ける無機質な存在とも異なる、欲望と倫理観のバランスを取りながら生きる存在が人間であると言えるでしょう。

 

人間とは「苦悩する存在」(ホモ・パティエンス)(1946)

ホモ・パティエンス(Homo patiens)はオーストリア精神科医フランクルが示した人間の定義で、「苦悩する人」を意味します。

第二次世界大戦中にナチス強制収容所へ収監されたフランクルは、極限状態における人間の姿から人間の本質を見出しました。

誰しも悩みや苦しみなどの否定的な感情は避けたいものですが、人間は使命感とともにその感情を保持し、その感情を力にして困難を乗り越える偉大さを持ち合わせています。

人間は、苦悩する存在であると同時に、苦悩を乗り越える存在でもあるのです。

 

人間は「理性的な動物」(紀元前)

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、人間と他の動物を区別するものとして「理性」をもつことを挙げました。

理性とは一般に「本能や感性に左右されずに行動する思考能力」を指します。

ただし「理性」という言葉自体が抽象的で、理性の定義も歴々たる哲学者によって若干異なるため、この定義だけで人間の本質を理解するのは難しそうです。

人間は「ポリス(社会)的な動物」(紀元前)

人間を「ポリス的動物」と表現したのは古代ギリシャの哲学者アリストテレスです。

ポリスとは古代ギリシャ時代における国家形態で、当時の社会単位であったことから「社会的動物」と解されることもあります。

アリストテレスは人間の行為に注目し、その目的が「幸福」であると説いた上で、最大の幸福を得るために社会を形成していると考えました。

「一人では生きられない」という考え方は人間の本質から生まれているのかもしれません。

 

人間は「類的な存在」(1867)

「類的存在」はドイツの思想家マルクスが示した人間の定義です。

彼は労働行為に注目し、人間は労働を通じて他者と結びつく存在であると考えました。

働くことに喜びや生きがいを感じ、働くことを通して同業者などの似た者同士(類)が集まるのは人間特有です。

ただし近年は「不労所得」もあるので、進展性がある考え方と言えそうです。

人間は「間柄的な存在」(1934)

日本の倫理学和辻哲郎は、人間を「間柄的存在」と表しました。

人間とはもともと「人と人の間」を意味し、人同士のつながりの中でそれぞれが自分の役割を見つけていきます。

人間は役割を果たすことで生き方や在り方を見出していく存在です。

考える葦(1670)

フランスの思想家パスカルは、人間を「考える葦」と表現しました。

「葦」とは水辺に生える植物の一種であり、この場合は「自然の中で最も弱い存在」の例えとして使われています。

人間は葦のように弱く宇宙になど到底太刀打ちできない無力な存在ですが、同時に「考える」という行為によって宇宙をも凌駕する偉大な本質を持ち合わせている存在でもあります。

おわりに-人間の定義を2つ加える-

先人達による定義は人間をよく考察していますが、彼らでさえも経験以上のことは語れないことには留意する必要があります。

たとえば生物学者のリンネは生物的観点から、歴史学者ホイジンガは文化的観点から、経済学者のアダム・スミスは経済的観点からの人間の考察です。これらはそれぞれの専門性に偏った見方であると言わざるを得ません。

このことから私が定義を1つ付け加えるなら「人間とは”変幻的存在”である」とします。時代や専門性など、見る角度によってその姿を変化させる人間は現時点で未だつかみどころのない存在であると言えます。しかしそれもまたひとつの本質として捉えることが可能なのではないかと筆者は考えます。

ただし、それが人間の本質を真に示す定義でないことを筆者は既に感じています。先人達の定義には多角性がありながらも、一定の共通項を見出すことができるからです(理性、文化、社会など)。

とはいえ人間の本質を見出すことは、生きる目的を明確にする指標として大いに役立ちます。強制収容所に収監されたフランクルが苦悩を乗り越えたように。人間の弱さに絶望したパスカルが考える偉大さに希望を見出したように。

たとえ経験に偏りのある結論だったとしても、真実ではないとしても、それが生きるエネルギーになるなら人間を定義づけることは意義があります。

そして「一人では生きられない」と言えど自分を生かすのは自分一人です。ただ一人の自分がより善く生きられるなら、ただ一人の自分の人生が明るくなるならば、「自分さえ良ければいい」ような人間の定義も多少は許されるでしょう。

もちろん、自分の定義によって不幸になる他者がいない限りにおいて、ですが。

あなたが人間の定義を1つ加えるなら、どんな存在を描きますか?